2005年11月24日

(06話)その6 夏野なぎさはワインを飲み、カテリナ・ゲルンは歌う

女主人公は宴会へ連れて行かれる。
実験の無い夜を久々に楽しむ。
一休みである。 実験はそこで中断となった。相田教授がやって来て、
「ゲルンさん達と食事に行きますのでそろそろ」
と言ったのだ。
「もうそんな時間ですか」
井上助教授が壁の時計に目をやった。
「上田、遠藤。何か聞いておきたいことはあるか、こんな機会はもう無いぞ」
「そうですねえ」
 上田が腹をさすりながら言う。
「この本、読んで勉強しますよ」
 ゲルン博士とカテリナが書いた本を指差した。ソファーの上に置いてある。
「この本はいただけるんですか?」
「だろうな」
 井上助教授が尋ねるとゲルン博士はうなずいた。もらえるらしい。

 遠藤さんが英語でゲルン博士に話し始めた。
「ぷりーず、ていーちみー、あー」
 なぎさには聞き取れないのだけど、「しょっく」とか「ぶれすと」とか「ばぎな」とかの単語はわかる。遠藤さんも英語が話せるんだなあと感心する。この中で話せないのは私ひとりだけのような気がする。なぎさは情けなくなった。

 質問が終わると、上田教授が「よろしいかな」と言って、
ゲルン博士とカテリナを連れて出て行った。井上助教授も出て行く様子で上田に行った。
「じゃあ、すまんが実験を続けてくれ。問題は無いな」
「そうですね」
「俺は今日はそのまま帰る」
「へい」
と上田は答えて時計を見上げた。5時を少し過ぎたところだ。
「頼んだぞ」
 井上助教授も出て行った。
「先生たち、どこ行くんですかね」
「日本情緒のある飲み屋とか」
「とり屋ですか」
 とり屋は上田たちがよく行く飲み屋の名前らしい。

 なぎさはカテリナに別れの挨拶をしなかったのが心残りだった。
「さあて」
 上田があくびをするように言った。
「じゃあ、ハマ子ちゃんは足広げといてちょ」
 上田に言われて、なぎさは実験台に近づいた。とはいえ、なんだか実験をする気にならない。実験台に腰掛けて足をぶらぶらさせる。上田と遠藤さんは床に伸びた配線を片付けたりしていて、実験がすぐに始まるようにも見えない。

 痛みが残っている感じがして、なぎさは乳房を手で包んだ。少し熱い。
「おい。もう実験を始めているか」
 井上助教授が入ってきた。
「あ、いや、まだです」
 上田があわてたように答える。
「後片付け中です」
 井上助教授はまわりを見回してから言った。
「お前達が嫌ならいいんだが、できれば食事に同席してほしいというんだが、どうだ?」
「は?」
 上田が床から顔を上げた。
「行きたくなければ行かなくてもいいぞ」
「いやいや、行きますよ。ぜひぜひ、お願いします」
 上田が嬉しそうに言う。
「そうか、じゃあ片づけが終わったら上田先生の部屋に来てくれ」
「へーい」
「はい」
 上田と遠藤さんが嬉しそうに返事をする。

 なぎさは実験台から降りた。どうやら今夜の実験は無いようだ。上田の様子を眺めていると、井上助教授が言った。
「ハマ子さんも、ぼーとせずに」
「は?」
「裸で行く気か」
 なぎさも連れて行ってもらえるらしい。
「私も行っていいんですか?」
 井上助教授はそれには答えずに、
「今からタクシーを呼ぶから遅れるな」
と上田に言うと出て行った。



 実験棟の玄関を出ると、タクシーが2台止まっていた。大学の正門まで歩くものだと思っていたので、なぎさは妙に嬉しくなった。
「うわあ、贅沢気分ですね」
「安い贅沢やなあ」
 1台にはゲルン博士親子と相田教授が乗り、もう1台に残りの4人が乗って出発した。

 駅前で降りると、少し歩いて駅裏の高級そうな店に入った。相田教授が時々使うお店らしい。渋い中庭を横目で見ながら、長い廊下をみんなでぞろぞろ歩いていく。
(私の知らない世界だよ)
 なぎさは、こんなお店に入ったことが無い。これが料亭と言うところなのだろうか。上田も遠藤さんも同じらしく、2人ともきょろきょろしながら歩いている。
 Tシャツとジーパンと言う格好で来てよかったのかと恐縮してしまう。

 案内された部屋は、畳敷きで、まわりを襖と障子で囲まれている。障子にはガラスが一部はまっていて、窓ガラス代わりになっているようだ。覗いてみると、落ち着いた感じの庭が見えた。小さな滝でもあって水のせせらぎが聞こえてきそうだ。

 ゲルン博士とカテリナは畳に慣れているみたいで、すんなり座ってしまった。カテリナは珍しげに部屋の中を見回して、時おり「あれは何?」という感じでゲルン博士に尋ねている。ドイツ語だから何を言っているのかわからないのだけど雰囲気はそんな感じだ。2人ともにこにこして、研究室のときと様子が全然違う。

 なぎさは木の分厚いテーブルの下手に座った。目立たないようにメニューが置いてあり、開いてみると「夏蛍」とか「秋光」とか妙な名前のコースメニューが載っている。どれも高いけど1万円は超えていない。なぎさは、少し落ち着いた。超高級料理ではなさそうだ。居酒屋の2,3倍くらいだろう。
「酢堂のカツ丼、10杯分かあ」
 さすがに10杯食べたら飽きるだろうけど、1食でこの値段は高い。

 料理が順々に運ばれてきた。天ぷらとか刺身とか日本風のものばかりだ。そのくせ、テーブルの上にはお酒ではなくワインが置いてある。よくわからないけど、おいしいワインだった。

 ゲルンさん達は大丈夫かなと思って見てみると、ゲルン博士は箸を使って天ぷらを食べていた。あまり上手な様子ではない。カテリナはフォークを持ってきてもらったようで、フォークで料理を突き刺して口に運んでいた。恐々と食べている様子で、なぎさは微笑んでしまった。
「ハマ子ちゃん、気持ちよさそうじゃないの」
テーブルの向こうから上田が言う。
「このワイン美味しいですよね」
「もう一杯頼もうか」
「僕もお願いします」
遠藤さんもワインが気に入ったようだ。

 料理はもったいぶったように一品ずつ運ばれてくる。4口で食べてしまえるステーキとか、3口ですすってしまえる蕎麦とか、どの料理も量が少ない。
「食べたりんなあ」
「そうですね」
上田と遠藤さんがぼそぼそと言っている。なぎさも同意見だった。

 1時間ほどすると料理はおおかた終り、あとはデザートが残っているだけとなった。メロンとシャーベットが来るらしい。

 部屋の中は年寄り組と若者組に分かれていた。

 年寄り組は、相田教授と井上助教授とゲルン博士の3人だ。この3人は、ほとんどドイツ語で話しながら、時々日本語を混じえながら、すごく楽しそうに飲んでいる。

 若者組は、上田と遠藤さんとカテリナ、それとなぎさの4人だ。こちらは英語で話す。なぎさも、しどろもどろながら英語で話した。カテリナの話す英語が聞き取れないときは、上田に意味を教えてもらう。

 カテリナに聞いた話で一番うらやましかったのは、ドイツには入学試験が無いということだった。高校の終了試験に合格すれば、あとは好きな大学の好きな学科に好きな年に入学できるのだと言う。
「いいなあ」
「でも入ってから大変なんだろう」
聞いてみると、大学の卒業までに学生は半分くらいに減ると言う。どこも楽ではないようだ。

*

 デザートのあとに熱いお茶も出た。おいしいお茶だった。
(値段が高いだけのことはある)
なぎさは良い気持ちになって店を出た。

 支払いは相田教授と一部を井上助教授がやってくれたようで、なぎさは上田と遠藤さんに続いて「ごちそうさまでした」とお礼を言った。

 年寄り組はこれで帰るが、若者組はもう少し遊んでいくことになった。カテリナが「カラオケ」を見たいと言い出したのだ。
「カラオケ?」
妙な言葉を知っている。ドイツにもカラオケがあるのかと尋ねてみると無いそうだ。少なくともカテリナは見たことがないそうで、本場の日本でカラオケを見たいのだという。

 まだ8時だし、それに上田も遠藤さんも食べ足りないなあということで、カラオケに行くことに決まった。

 ゲルン博士は駅前の粟屋国際ホテルに部屋を予約しているそうで、10時までにチェックインすればよいらしい。あと2時間ある。

*

 なぎさが、3年生のときによく行っていたカラオケ屋があると言ったら、
「じゃあ、そこ行こう」
ということになった。
 駅前に戻って国道沿いに歩いて行く。途中にゲームセンターがあって、プリントクラブがあった。
「プリクラ撮りましょう」
 カラオケは知っていてもプリクラは知らないみたいで、カテリナは不思議そうに見ている。なぎさはカテリナを呼んで横に立ち、
「ふぉと、ふぉと、ふぉとしーるぼっくす」
と言いながらピースサインをした。

 出てきたシールを1枚はがして、なぎさは財布の内側にぺたりと貼った。
「ぷりくら、いず、ぴくちゃーしーる」
と説明してみたが、カテリナは不思議そうな顔をしていた。よくわかない風だ。ドイツ人には受けないのかもしれない。

 カラオケでは、上田はアニメの唄ばかりをリクエストした。スポーツアニメ10連発とか、ロボットアニメ大行進とか、そんな感じのばかりだ。盛り上がるのだけど偏っている。

 遠藤さんは、昴とか兄弟船とかしぶい歌ばかりを歌う。悪くはないのだけど、こちらも偏っていると思う。

 なぎさは流行りの歌をリクエストしようと思うのだけど、4月から実験室に閉じ込められているものだから、最近のヒット曲が全然わからない。仕方がないので去年の歌をリクエストする。

 カテリナは、カラオケルームを面白そうに見回したり、なぎさたちが歌うのにいっしょに手拍子したりして楽しそうにしていた。

 カラオケには洋楽もあって、カテリナにもリクエストしてもらった。カテリナは顔を真っ赤にして唄っていた。
「うまいのかへたなのか、よく、わからないけど」
「発音は本格的やなあ」
 男2人女2人ということでABBAの歌を4人でそろって歌ったりもした。17歳で踊りの女王とかいう歌詞の歌だ。

*

 上田が魔法少女メドレーを歌い始めたので、なぎさは部屋を出た。少し前からトイレに行きたかったのだ。
 トイレから出ると、男性用のトイレからも人が出てきた。
 なぎさは、驚いて立ち止った。向こうも驚いたようだ。
「あ」
「あ」
 木下だった。同じ4年生の学生で、人体伝導率研究室に配属されている。
 なぎさは、顔が赤くなって来るのを感じた。これは酔いではない。木下には、裸を見られてしまったことがある。4月にあいさつ回りということで、全裸で近所の研究室を訪ねたのだ。その時に学生控え室にいた4年生達にも挨拶したのだった。
(うわああ)
 なぎさは、またトイレに入ってしまおうかと思った。
「やあ」
 木下が声をかけてきた。その顔も赤くなっているような気がする。
「えーと、な……」
「ああ、砂田です、砂田浜子です。どうも、こんばんわ」
 なぎさは慌てて遮った。木下が「夏野」と名前を呼びそうな感じだったからだ。裸を見せたのは「砂田浜子」であって「夏野なぎさ」ではない。砂田浜子で通してしまおう。
「あ、砂田さん」
 木下は、そうか、そうか、そういえばそんな名前だったかなとつぶやいてから言った。
「えーと、砂田さんは誰と来てるんですか?」
「上田さんたちと。ドイツから来た人がカラオケを見たいというんで連れてきたんです」
「へえ、ドイツ人と」
「木下さんは誰と?」
「友達と。僕らはもう帰るところなんだけど。な、じゃない、砂田さんはまだ帰らないんですか?」
「はい、まだ」
 しゃべることが無くなってしまった。砂田浜子と木下との間では話題が無いのだ。
「なんか、久しぶりだよね」
 木下の口調が少しくだけてきた。
「4ヶ月ぶり?」
 なぎさは、ようやく木下の顔を見ながら言う。
「そうやね、ずっと実験室にいるんだけど、会わないね、あれから」
「なんか事情はよくわからないけど」
「うん?」
 香水の匂いが近づいてきた。ちょっと大人びた香りだ。香水の名前はわからない。でも、この香水をつけているのは良く知っている。

 木下の隣に秋野がいた。秋野あかねだ。秋野は木下に腕をからませた。
「木下君、帰るよ」
「ああ」
「誰この人?」
 秋野が顔を覗き込んでくる。
「同じ研究室の人で、砂田さん。ドイツ人のお供できてるんだって」
「ドイツ人?」
 秋野は、ドイツ人、ドイツ人と何度か口の中で繰り返している。かなり酔っているんじゃないだろうか。なぎさは後ずさりを始めた。知り合いには出来れば会いたくないのだ。秋野はすっと顔を上げると言った。
「ええ?からかわないでよ。夏野さんじゃないの」
 木下が慌てたように言う。
「違う違う、砂田さんだよ。似てるかもしれないけど、髪の毛短いだろう」
「ああ、そうだね」
 なぎさは、砂田浜子の振りをして挨拶した。
「はじめまして、砂田です」
「あれれ声がそっくりなんだけど、夏野さんと」
「じゃ、じゃあ、私はこれで」
「あ、おやすみ」
 なぎさは、急いでその場を離れた。後ろから一団の声が聞こえてくる。
「木下、遅いぞ、なにやってんだよ。秋野も」
「悪い、悪い」
「木下君、今夜は部屋まで送ってよ。私酔っちゃったあ」
「秋野とは帰る方向、全然、逆だろう。小阪に送ってもらえよ」
「俺、やだよ。こんな酔っ払い。見城、行け、チャンスやど」
「パスパス。あとが怖いよ」
 研究室の4年生で遊びに来ていたようだ。でも秋野は関係ないはずなんだけど。
(楽しそうだなあ)
なぎさは、正直うらやましかった。ここしばらく、毎晩遅くまで実験をしているばかりで遊びに行った記憶が無い。大学の最後の年だというのに、このまま実験だけの日々で終わってしまうのだろうか。
 さびしい。
posted by AWAWA at 00:24| Comment(0) | TrackBack(0) | ゲルン父娘来粟記
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