1998年10月25日

(15話)その15 夏野なぎさは挨拶回りをし、腹を立てる

新年度のはじまり。
女主人公は新人の特別実験研究生である。
挨拶まわりをする。

なぎさは、ふらふらと立ち上がった。頭がぼーとする。体が揺れているように感じられて、金網ベットに座り込んでしまう。

上田が笑いながら言った。
「ほら、立った立った」
「はあ」
「訓練を始めるよ」
「え、もう」
今日から身体に電気を流される訓練が、また始まるのだ。気が重い。それでも、なぎさは立ち上がった。まだ少しふらつく感じだ。

廊下側のドアが開いた。
「……はようございます」
遠藤さんが挨拶をしている。相田教授だった。
「砂田さんは、いますか。ああ、砂田さん、ちょうどいい。ちょっと来てください」
上田が言った。
「相田先生、あの、今から訓練なんですが」
「上田君、すまないけど、少し時間をください。新年度が始まったので砂田さんを紹介してあげたいのです」
「ああ」
上田が合点したように言う。
「挨拶回りですか」
なぎさは、少し緊張していた。相田教授に裸を見られるのは初めてだ。耳のあたりが熱くなってくるのが、自分でもわかる。

相田教授が誘うように言った。
「では、砂田さん、いっしょについて来てください」
「はあ」
なぎさは、よく分からないまま相田教授に近づいた。
「どこへ行くんですか」
「隣近所の研究室を回ります。あなたを紹介するためです」
「はあ」
「特研生はかなり特殊な状態にありますからね、おかしな誤解が起きないように、あらかじめ挨拶をしておくのですよ」
「はあ」
特殊な状態というのは、全裸のことなのだろう。つまり、今の私がそうだ。確かにこんな姿を見られたら露出狂と誤解されかねない。

相田教授は控え室を出て行った。後について行こうとして、なぎさは立ち止まった。
「私、服を着ないと……」
裸で廊下へ出る訳にはいかない。
「砂田さん、服はいいですから」
「え」
なぎさはびっくりした。
「え、あの」
「研究室の中ではあなたは裸でいる方が多いですから、そのままの方がよろしいでしょう」
「はあ」
なぎさは控え室を出た。

*

廊下を歩く。

なぎさは、誰かに会わないかと気が気でなかった。乳房と股間を手で隠して、おどおどした格好でついていく。

相田教授は廊下を少し行くとドアの前で止まった。ドアの上には「学生控え室」と札がある。
「ここから行きましょう」
「ここは、どなたの部屋なんですか」
「今年配属された学生諸君の部屋です」
相田教授はドアを開けて入っていく。なぎさも続いた。学生らしいおしゃべりが聞こえる。数人の男子学生がいるようだ。なぎさは、足が震えてしまった。

部屋に入った瞬間、学生達のおしゃべりがぴたりと止まった。学生たちが目を丸くしてなぎさを見ている。全裸の女が現われたのだから無理はない。なぎさは、すぐにうつむいてしまった。恥ずかしさで全身が赤くなっていくのがわかる。

相田教授が言った。
「皆さん集まってください」
バラバラなところに座っていた学生達がゆっくりと近づいて来る気配がする。相田教授がなぎさを紹介した。
「特別実験研究生の砂田浜子君です。研究室の実験に協力してもらいます。実験の特殊性ゆえに裸でいることが多いですが、よろしくたのみます」
相田教授がなぎさの方を向いた。
「砂田さんからも一言お願いします」
「え」
なぎさは言葉に詰まった。顔も上げることができないのに、挨拶なんてできるわけがない。

なぎさが黙っているうちに、4年生達がざわざわと始めた。
「真っ裸・・・」
「な、夏野さんじゃないのか・・・」
「でも髪が短いぜ」
「砂田さんって、言ってたけど」
相田教授が注意する。
「静かに」
なぎさは、下を向いたまま一気に言った。
「砂田浜子です。よろしくお願いします」
礼をして頭を下げる。4年生達も礼をしている気配がしたので、なぎさは少し目を上げた。やはり気になる。
(あ、木下君もいる!)
なぎさは木下を見つけて、あわてて下を向いた。

工学部は、1学年に100人以上の学生がいる。これだけ人数が多いと、全員の名前と顔を覚えることができない。名前と顔が一致する学生が50人くらい、親しいと言える学生が10人くらいだろう。木下は親しい学生の一人だった。口をきいたことも無い学生ならともかく、よりによって木下君がこの研究室に配属されるなんて、なぎさは巡り合わせの悪さを呪った。

相田教授が言った。
「君たちも自己紹介してください」
学生達は、何も言おうとしない。
「では、君からお願いします」
「えっと、栗田です」
少し間を置いて、続いた。
「見城です」
「小坂です」
「木下、です」
なぎさは下を向いたまま聞いていた。木下の声を聞いた瞬間、心臓が縮んだように感じられた。
「では、次へ行きましょう」
相田教授の言葉を聞いて、なぎさは部屋から走り出た。心臓がどきどきしている。部屋の中から、学生たちの声が爆発するように聞こえてきた。
「何だ、今の!」
「裸だぞ、裸」
「どう、どういうことだ!?ありゃ」
「すげーや」
相田教授が遅れて出てきてドアを閉めた。声は聞こえなくなった。

*

相田教授は廊下の向かいのドアを開けた。
「次は事務の女性に紹介しましょう」
なぎさは身体が動かないような気がして、歩き出すことができなかった。
「どうぞ」
相田教授に即されて、なぎさは廊下を渡った。部屋の中には、女性が一人いた。なぎさから見ても幼い感じだ。
「あっ」
彼女はなぎさを見ると立ち上がった。
「な、なに……」
そのあと、声が続かない。相田教授が声をかけた。
「坂本さん、驚かしてすみません。この人は、うちの実験に協力してもらっている砂田さんです」
「……」
まだ声が出ないらしい。相田教授は、なぎさに事務の女性を紹介した。
「坂本さんは、研究室の事務一般をやってもらっています。今月から働いてもらっています。砂田さんと同じ新人ですね」
なぎさは、坂本と呼ばれた女性が、今朝廊下で会釈した人だと思い出した。少し気が楽になったので、自分から挨拶をしてみた。
「砂田浜子です。よろしくお願いします」
坂本さんは、なぎさではなく、相田教授に言った。
「ど、どうして、この人裸なんですか」
「ああ」
相田教授は説明した。
「それは、実験の特殊性のためなのです。砂田さんには了解をいただいていますよ」
なんだか怖がらせているみたいだ。なぎさは、坂本さんの慌てぶりを見て申し訳なく思った。いきなり裸の女が現れたら、誰でもびっくりしてしまうもの。
「では、次に行きましょう」
相田教授は部屋を出た。なぎさも続いた。ドアを閉める時、中から「あー、びっくりしたー」という声が聞こえてきた。なぎさは少し笑った。

*

相田教授は廊下を進んだ。
「お隣の研究室にも挨拶しますよ」
「はあ」
相田教授の少し後ろに隠れるようにして、なぎさは歩いた。途中で数人とすれ違う。どの人も、なぎさが裸なのに気がついているはずなのに表情を変えることもなく、通り過ぎていく。なぎさは、気分的にかなり助かった。

小一時間をかけて、なぎさは相田教授と8つの部屋をまわり、およそ50人に挨拶した。

ある研究室では、老けた院生が一人いて、なぎさが挨拶してもにやにや笑っているばかりで、なぎさはむっとしてしまった。

別の研究室では、教授が親切心を出して研究室の学生を部屋に全員集めてくれた。なぎさは、おかげで、10数人の前で挨拶をすることになった。

集まった学生たちは、口々に好き勝手なことを言う。
「去年の人はやめたの?」
「奇麗な子だったのにな」
「今年は、まあまあかな」
「胸ぐらい見せろよ」
「そうだそうだ」
「せっかく、来てやったんだぞ」
相田教授も自分の研究室ではないので、「静かに」とは言えないようだ。なぎさは、だんだんと腹が立ってきた。
「砂田浜子です。さようなら」
というと、そのまま部屋を出た。靴を履いていたらドンドンと靴音を鳴らしたいところだが、裸足なのでせいぜいペタペタと音をたてるしかない。部屋の中から笑い声が聞こえてきた。「連れ戻せ」という物騒な声もする。

相田教授が少し遅れて出てきた。楽しそうに笑っていた。
「あなたは面白い人ですね」
「そんなことはないです」
なぎさはこたえた。

*
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